IGPI’s Talk

#26冨山和彦×西山圭太 対談

あの時、IGPIグループと共に歴史が動いた

「経営と経済に新しい時代を切り拓く」というパーパスのもと、あらゆる組織体の「経営のあるべき姿」を日本や世界に問いかける活動を展開してきたIGPIグループ。IGPIの設立メンバーの多くが参画していた産業再生機構の時代から、東日本大震災やアベノミクスを経て現在まで、IGPIグループがどのように日本と世界の経済と経営に働きかけてきたのか。
IGPIシニア・エグゼクティブ・フェロー西山圭太とIGPIグループ会長の冨山和彦が、当時の考えを交えつつ、IGPIと日本経済の歩みについて語り合いました。
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昭和モデルの限界――産業再生機構の発足

西山 冨山さんと出会ったのは、経済産業省から内閣府に出向し、産業再生機構準備室に在籍していた2002年です。さかのぼることその数年前、私は欧米に出張して海外の倒産法制を調査したことがありました。当時はまだ民事再生法がなく、法整備が必要だという議論が出ていたのです。結果として、裁判官、弁護士、鑑定人など欧米各国の再生専門家を幅広く回りました。例えばフランスでは一般の裁判所のほかに、企業問題だけを扱う裁判所があり、「商人の自治」の発想で、法律家ではないビジネスマンが任期付で裁判官を務めているのですが、そこも訪ねました。その時に気づいたのが、法律や制度だけ作っても、それを運用するエコシステムを支える人たちがいないと回らないということです。だから、産業再生機構には、冨山さんなどのプロフェッショナルに来ていただき、企業や産業の再生、不良債権の処理に必要なソフトウエアやエコシステムを支える仕組みや人材をつくることが大事だと思っていました。

冨山 昔、法律を勉強していた時に読んだ本に「破産法制の進化や成熟の度合いは即ち、その国の資本主義の成熟度合いだ」と書かれていました。企業再生に関わる中で、日本の成功モデルには前近代性があり、制度も未整備、資本主義も未成熟だなと感じていました。つまり、イノベーションや新陳代謝で成長をドライブしなければならない段階になっても、産業構造が転換できていないなと。国が10兆円用意して不良債権を処理する政策を検討していたとき、西山さんをはじめ、私と同じ考え方を持つ人も何人かいました。そういう同志と一緒に、日本の経済システムは制度、人材、エコシステムが時代的に不適応を起こしているので、その根本原因まで踏み込もうという路線で、産業再生機構は突っ走りました。

西山 昭和モデルのソフトウエアがもはや現状に適合しないことが最初に露呈した分野が、破産法制、破綻処理ですよね。日本は政府主導で急速に近代化を遂げました。しかし、制度はコピーできても、ソフトウエアやエコシステムとなると政府の取り組みでは限界があり、より時間もかかります。自立したプロフェッショナルの育成はずっと明治以降の日本の課題だったと言えます。現在は、人口減少という新たな局面で「ポスト昭和モデル」をつくり、それを支えるエコシステムやプロ人材を育てる必要があります。これらがIGPIグループの活動の根底を流れる共通テーマだと思います。

冨山 そうですね。IGPIの歴史は産業再生機構時代から始まります。1990年代の日本は不良債権問題に悩まされ、金融危機で銀行がバタバタとつぶれていました。そうなった一因は、制度も人々の価値観も、すべてが「会社はつぶれてはいけない」という建前で動いていたからです。借りたお金を返せなくなったら倒産処理で退出すればいいと経済学者は簡単に言いますが、当事者には誰も倒産処理をする動機付けがないんです。倒産処理に入れば、経営者はクビになり、下手すれば訴えられる。従業員はリストラされ、銀行は債権カットを迫られる。株主に至っては株式が紙切れになる。だから、先送りされてしまった。

おまけに当時は銀行自体がピンチで、不良債権の処理によって連鎖倒産するリスクがありました。特に昭和モデルでは、銀行がエクイティーホルダー的な仕事も担い、不動産を担保にお金を貸していました。激減した不動産価値を時価評価すれば、また不良債権が増えるので、みんなフィクションだと自覚しながら非常に高い簿価評価で頑張っていた。いろいろなところで行き詰まっていたわけですが、行政官の目にはどう映っていましたか。

不良債権処理は人間の解放である

西山 バブル崩壊の遠因は、高度成長を終えて次のことを考える必要があった80年代に、ナンバーワンだと言われて浮かれてしまい、旧モデルに富をつぎ込んだことにあります。本来であれば、この時期に、メインバンクがあって、社員は終身雇用という既存の形とは違う、新しい組織原理をつくっておくべきでした。しかし、実際にはバブル崩壊後もなお、我慢していれば、いつか前のモデルに戻れるという考えから、変化は進みませんでした。同調圧力が強い日本では、少し変わった人がいないと、組織原理は変えられません。その組織に完全には属さない「自立した個人」が新しいシステムを考え始める必要があります。

その実践の場が産業再生機構であり、だからこそ、原則として独立したプロフェッショナルに運営してもらうことにしました。銀行など特定の企業を代表して産業再生機構に来ると、公平にできないからです。それから設置期限も入れました。不良債権処理の仕組み自体は90年代にできましたが、債権を公的組織に移し替えて塩漬けにしただけで何も解決しなかった。何年間かで終えて結果をはっきりさせたかったのです。

冨山 自分もほぼ近いプリンシプルを持っていました。そこで、産業再生機構をとにかくプロ型組織にして、紐づきで来る人は基本的に受けつけないようにした結果、昭和とポスト昭和の第1のバトルが生まれました。第2のバトルは、債権買取りのバリュエーション(企業価値評価)です。我々はDCF(ディスカウントキャッシュフロー)法、銀行側は簿価を使っていました。裏公的資金を注入して債権を移す方法を期待する声もありましたが、それで早く処理できても、問題の根本解決にはならないので、ここでもバトルとなりました。

時限に関する話でいえば、旧制度を守りたい人たちは素人ではなく、それなりに見識や知識を持っていることを忘れてはいけません。それに対して、民間で十分に食っていける一流の人材がわざわざ集まってやっている状況を作らないと、後腐れなくバトルはできません。これは絶対的な条件でしたが、担当大臣の谷垣禎一さんが呑んでくれました。当時の官民ファンドの中で、このプリンシプル通りやりきったのは産業再生機構だけです。

もう1点、経路依存性の罠にはまっているので、産業再生機構がただ債権を買い取るだけでは一時的な解決にしかならず、いずれまた不良債権化します。だから、PE(プライベートエクイティ)ファンドのように資本注入して経営に関与しないと駄目だと思っていました。しかし、これはある種の国有化ということになるので、ここも意外と抵抗感がありました。不動産価格も担保価値も下がったのは一過性で、我慢していれば春が来ると考えている人がまだいたのです。

西山 そうですよね。企業再生局面で一時しのぎ的な手法をとると、貴重な人材の無駄遣いになります。実は不良債権処理の本質は人間の解放です。当時はお金を貸す銀行も借りる人も言い訳をしようと大量の書類を作成することに忙殺されていました。そういう仕事から人間を解放して、もっと前向きな仕事をしないと、日本経済に将来はありません。

長期視線で経営人材をつくり、企業を改造する――IGPIの創設へ

西山 その後、IGPIを設立したときには、何を目指されたのでしょうか。

冨山 幸いにして、不良債権問題は2005年までに一気に終わりました。整理手続が普通に行われるようになり、PEも成長しており、政策的ミッションは終わった。それで次にやることを考えてみると、残っていたテーマがありました。

まず、再生案件で規模や業種を問わず共通していたのが、経営人材がいないことです。人口が増えて右肩上がりで、教科書があって、欧米のキャッチアップ型モデルで機能するサラリーマン的な経営者は大勢いますが、それでは通用しません。自分の意思や世界観を持って、変転する社会構造の中で道を切り拓ける経営人材をこの国に蓄積する必要がありました。

もう1つは、我々の時間的な限界です。産業再生機構が保有する2年間で、贅肉を落とせばV字回復は可能ですが、問題はその先で、新しい時代に合わせて会社を変容させる戦いが始まります。新たに投資して新しい人材を採るのに必要な長期的な資金を何とかしないといけないと思いました。

IGPIの創業メンバーには、新たな就職先として高い年収であちこちから声がかかっていましたが、そんな普通のキャリアでいいのか。みんな共通の思いがあるなら、積み残したテーマを解決する組織を民間で作ろうという話になったのです。その際に、「冨山&カンパニー」ではなく、会計事務所や法律事務所のように、パートナーシップ・ガバナンスのプロ型組織にして、50年100年続く日本発の集団にしたいと思いました。自分の命は有限なので、そうしなければ事業継承のときに困ってしまいます。競争相手が少ないので、IGPIはきっとそれなりに成功します。すると、企業価値が上がって、株の承継ができなくなる。そこで本来は不要な上場をしようものなら、話がおかしくなります。こうした理由から、均等な持ち分のパートナーガバナンスの会社として立ち上げました。

西山 昭和のモデルでは社名や肩書が重視される中で、社会的な序列を気にせずにプロを目指すような、少し変わった人材はたくさん集まってこそ力を発揮できます。IGPIは、そういう人材が共創できる組織作りをされてきたと思います。

冨山 IGPIの行動指針である8つの質問のうち「心が自由であるか」はプロ型組織ではすごく大事なことです。自由とは「自らに由る」。つまり、自分自身の世界観や価値観があって、それを行動や判断の思考のベースにする。組織の規範に基づいて行動するのは他由です。

ただし、自由であっても集団として一緒にいるためには、何らかの価値観の共有が必要です。純粋にビジネスとして短期的成長を追いかけるなら、1つの経済目的に向かって求心力を働かせたほうがいいので、多様性は邪魔になります。逆に言うと、短期成長より多様性をとると腹決めしないといけないということです。変な人が集まっても組織として機能する梁山泊をつくることに特にこだわりました。

昭和モデルの終焉とLとGの両輪モデルへ

冨山 IGPIでは、縁あって東北地方のバス事業の再建を始めました。そこで気づいたのは、地方経済はグローバル産業とは違う原理で動いていることです。産業再生機構の再生案件では余剰人員が毎回のイシューでしたが、東北では今から10年以上前でも運転手が足りませんでした。というのも、若い人が東京に出てしまい、全体の人口は自然に減っていく。経済は右肩下がりですが、労働供給は先行的に減少するので、地方には仕事がないという通説とは全然違いました。当時、西山さんとこの議論をしたとき、G(グローバル)とL(ローカル)の話になりましたよね。さすが西山圭太と感じさせられました。

西山 2008年前後に地域医療のテーマを扱ったときに、産業組織論的な発想の政策がないことを知りました。地域医療は、緊急病院の次に滞在型病院に行き、かかりつけ医も関係するという組み合わせでできているのに、個々の病院の対策ばかり検討していたのです。さらに経産省では、産業のすべてを製造技術で語ろうとしますが、ほとんどの中小企業には当てはまりません。それでは政策にならないので、共通項を探したところ、GとLに行き着きました。

冨山 そこで概念化、抽象化、普遍化ができた結果、IGPIとしてもローカル経済圏で本気で取り組む価値があると気づきました。日本ではGのほうが大きいと思われがちですが、むしろLのほうが大きい。G側だった自分の中でも価値転換がありました。それで書いた本が、日本全国で地方創生政策が始まる1つのきっかけになりました。

みちのりグループは東日本大震災が起きて大変でしたが、原子力発電所の避難輸送もしながら、何とか乗り越えました。東京電力の事故では原子力損害賠償の基本スキームを一緒につくりましたが、歴史的に見ると、あれが昭和のモデルの終焉だったと思います。

西山 東京電力の原子力部門は、総合電機の半導体部門と少し似ていました。まず、社内で自分たちは最も先端的なテクノロジーを担っていて、自分たちだけがわかっていると思っていた。そうすると他の分野から学ぶ姿勢がなくなって、安全も含めて進化が起きなくなるのです。

冨山 それではイノベーションは起きないし、新しいイノベーションも取り込めないですよね。

心血を注いだ企業統治改革

冨山 続くアベノミクスの段階では、産業全体で昭和モデルから脱却することが根本イシューでした。古いのは金融だけでなく、産業全体が同じ病だと確信しました。アベノミクスの制度改革論で一番成功したのが企業統治改革ですが、モデルの転換では一番上から変えていかないと、下からでは根本的に変わりません。IGPIは会社を挙げて一生懸命に関わり、パートナーが社外取締役になることを基本的に認めたのもこの時です。

西山 私は2013年に冨山さんの本のタイトルを借用して経産省で「稼ぐ力研究会」を作りました。コーポレートガバナンス・コードは、稼ぐ力を指標に会社のシステムを再構築するのにすごく有効です。同時に、コードがあっても経営者がまず自分で考えることが必要です。通常の“comply or explain”(遵守もしくは説明せよ)とはむしろ逆の発想、つまりは”explain or comply”という発想です。まずは、やりたい経営の構造を自分で合理的に選択し、対外的に自分の言葉で説明し、アイディアがなければコードから借りるという発想です。これは「順番が回ってきたので経営者をやります」というのではなく、自立した個人として経営することにも関係します。

冨山 「稼ぐ力」という言葉を使い始めた裏側には、なぜ稼げなくなったのかという思いがありました。それは、ガンガン設備投資をして大量生産して、世界的に大量販売するという昭和のモデルが、新卒一括採用や終身年功制など青木昌彦先生のいう制度論になっていて、通用しなくなったからです。このモデルを壊すには、組織の中に多様性やダイナミズムが必要ですが、それは日本の会社の形に向いていません。根本的な改造、IGPIでいうCX(コーポレート・トランスフォーメーション)に本気で手をつけないとマズい。どこに取りつく島があるかというと、経営者の選任です。誰が一番偉くなるかはみんなが見ているので、これを変えれば、一気に変わる。だから、私は企業統治改革に執念を燃やしました。

AI革命を見据えた挑戦

冨山 昭和モデルを崩した後の、次なるチャレンジがITです。ちょうどその頃、東京大学の松尾豊先生と出会い、AIに歴史的な産業革命性を感じました。動力革命が筋肉を置き換えて、情報通信革命が知覚を置き換えて、AI革命は脳を置き換えるのだなと。それでもっと大きなスケールで取り組もうと、西山さんに電話して「歴史を作ろうぜ」と誘いました。

西山 ご紹介いただいて、松尾さんには稼ぐ力研究会に入ってもらいました。日本でAIをリードできるように、データサイエンティストの養成講座が必要だということで、東京大学グローバル消費インテリジェンス寄付講座(GCI)ができました。今では東大生以外も含めて年間1万人が受講しています。これだけの人気講座となった理由は、学生が後輩に教える仕組みがあるから。教えることは一番勉強になるし自分で考えるようになるので、起業する卒業生もどんどん出てきました。そういう掛け算でAIやスタートアップの周りにエコシステムが生まれています。

冨山 革命が起きる時はベンチャーが生まれる瞬間で、松尾さんの周りに多くのスタートアップが出てくるのは必然です。だから、本気でやろうと思ったのです。

IGPIでは国際協力銀行(JBIC)と組んで、北欧でベンチャーキャピタルNordic Ninjaも始めました。90年代終盤に東大の技術移転機関(TLO)や東京大学エッジキャピタルパートナーズ(UTEC)など、スタートアップのエコシステムづくりに関わってきましたが、世界とつながっていないという問題意識がありました。結節点をつくるなら、レッドオーシャンのシリコンバレーよりも、新しいグローバルシステムが形成されている北欧が面白いと思いました。

こうした新たな取り組みで毎回共通するのが、きっかけには私も絡むけれど、ほかに真剣にやりたいと思っているパートナーがいることです。自分の意思でいろいろやりたい連中が集まった梁山泊だから実現したことだと思います。

後編へ続く

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